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荒木村重 あらき むらしげ (1536~1586) 荒木家
摂津の国人。摂津・池田城主・池田勝正の家臣だったが、三好三人衆と池田一族の知正と手を組んで勝正を追放、知正を傀儡として池田家の実権を握った。勝正は織田信長の後ろ盾を得ていたため、一時信長とも敵対するが、のちに三好家から離れて信長に従い、足利義昭を支持して信長と敵対した知正を降して摂津一国を任された。その後は本願寺攻めや中国攻めなどで活躍する。しかし、1578年、信長に対して突如謀反を起こし、有岡城に立て籠もる。迫る織田勢に対して、説得に来た黒田官兵衛を幽閉するなど徹底抗戦の構えを見せたが、次第に劣勢となると、1年におよぶ籠城戦の末に一人で逃げ出し、城に残された妻をはじめ一族郎党が、ことごとく処刑されるという悲劇を生んだ。本能寺の変後、自分を卑下したつもりか「道糞(どうふん)」と名乗って再び表舞台に登場。豊臣秀吉に許され、名を「道薫(どうくん)」と改め茶人として余生を送った。
池田勝正 いけだ かつまさ (1539?~1578?) 池田家
摂津の国人。摂津池田城主。初めは三好長慶に従っていたが、長慶の死後、織田信長が上洛してくると降伏し、摂津三守護のひとりに抜擢された。1570年には朝倉攻めに従軍。金ヶ崎の退き口では、羽柴秀吉、明智光秀を率いて殿をつとめた。帰国後、三好三人衆と組んだ一族の知正と家臣・荒木村重によって追放される。その後も信長に従うが、信長が足利義昭と対立すると義昭を支持。すると今度は織田家臣となっていた村重に敗れ、高野山に追放された。
池田知正 いけだ ともまさ (1555~1604) 池田家
摂津の国人。織田信長によって摂津三守護の一人に任命されていた一族の勝正を、三好三人衆と家臣・荒木村重の力をかりて追放し当主となる。信長の勢いが強まると三好家から織田家へ鞍替えするが、信長と足利義昭が敵対すると義昭に味方し、信長の家臣となっていた村重に追放され、のちに村重の家臣となった。村重が謀反を起こし、有岡城を一人で脱出して尼崎城に移ると、降伏の使者として赴くが、説得できず、そのまま出奔した。本能寺の変後は豊臣秀吉、秀吉の死後は徳川家康に仕えた。
伊丹親興 いたみ ちかおき (?~1574) 伊丹家
摂津の国人。伊丹城主。管領・細川晴元に仕えた。細川家中で三好長慶が台頭し、晴元と長慶が対立しても晴元を助け、のちに長慶とは和睦した。長慶死後は三好三人衆と対立し、上洛を果たした織田信長に臣従して三人衆を畿内から駆逐すると、和田惟政、池田勝正と共に摂津三守護に抜擢された。その後、信長と足利義昭が対立すると義昭に味方してしまったため、織田方についた荒木村重に攻められ自害した。
高山右近 たかやま うこん (1552?~1615) 高山家
摂津の国人。高槻城主。諱は重友。キリシタンとして有名で、ジュストの洗礼名でも知られる。三好家が畿内で勢力を誇っていた時にはそれに従っていたが、織田信長の上洛後は摂津三守護のひとりとなった和田惟政に従う。惟政の死後は、信長に摂津を任されるようになった荒木村重の指揮下に入った。1578年、村重が謀反を起こすと、最初はこれに従ったが、すぐに信長に投降。この投降が結果として謀反の早期終結に繋がったため、高槻城主の地位は据え置かれ4万石を拝領した。本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉に従うが、1587年に秀吉が伴天連追放令を出すと、領地よりも信仰を選び前田家の客将となった。1612年、今度は徳川家康により禁教令が出されると、14年に国外追放処分を受けて前田家を退去し、追放先のマニラで亡くなった。
中川清秀 なかがわ きよひで (1542~1583) 中川家
摂津の国人。最初は池田勝正に仕えたが、勝正が池田知正とその家臣・荒木村重に追放されると知正に従った。織田信長の上洛後、信長によって村重が摂津一国を任されるようになるとその指揮下に入る。1578年、村重が謀反を起こすと、最初は従ったが、高山重友(右近)と共に信長に投降。その後は丹羽長秀、池田恒興に従った。本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉に従って山崎の戦いで活躍したが、賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政の急襲にあって討死した。
中川秀政 なかがわ ひでまさ (1568~1592) 中川家
清秀の長男。父・清秀が賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政の奇襲をうけ討死したため家督を継いだ。四国征伐後、羽柴秀吉にこれまでの武功が認められ播磨国三木13万石を拝領した。その後、九州征伐、小田原征伐で活躍したが、文禄の役で朝鮮に渡海した際、油断して鷹狩りに出たところを敵に包囲され討死した。あまりの醜態に家は改易されそうになるが、父・清秀の武功に免じて石高は半分になるものの弟・秀成への家督相続が認めらた。
中川秀成 なかがわ ひでしげ (1570~1612) 中川家
清秀の次男。父・清秀が賤ヶ岳の戦いで討死すると、家督は兄・秀政が継いだが、秀政は文禄の役で鷹狩最中に敵兵に殺害されるという失態を演じ、改易を恐れた秀成は兄の死を「戦死」と報告した。しかし、これが露見して豊臣秀吉の怒りをかった。改易でも文句の言える立場でなかったが、父・清秀の武功により所領は半分の6万6千石されるものの、家督継承は認められた。その後、大友義統が改易されると、豊後・岡城7万4千石を拝領する。関ヶ原の戦いでは、西軍に属して家臣を細川藤孝が守る田辺城攻めに参加させたが、のちに黒田孝高(官兵衛)を介して東軍に寝返り、所領を安堵された。
真鍋七五三兵衛 まなべ しめのひょうえ (?~1576) 真鍋家
和泉国淡輪の土豪。諱は貞友。織田信長に属し、のちに信長の命で淡輪を離れて和泉郡大津へ移り大津城(真鍋城)主となった。第一次木津川口の戦いで、佐久間信盛のもと真鍋水軍を率いて毛利水軍と戦ったが、惨敗して討死した。家督を継いだ子の貞成(五郎右衛門)は、羽柴秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍について没落するが、徳川秀忠に召し抱えられ、紀州徳川家の家臣となった。
河野通直 こうの みちなお (1564~1587) 河野家
伊予の戦国大名。湯築城主。前城主・通宣の養嗣子となって若くして家督を継いだ。河野家は通宣の時代にはすでに衰退し、毛利家の援助を得て何とか勢力を保っていたが、若年で当主となってしまった通直は家臣の反乱や周囲勢力の圧力に抗えず、四国統一を目指す長宗我部元親に降伏した(諸説あり)。羽柴秀吉の四国征伐では小早川隆景に降伏し、征伐後、伊予はそのまま隆景に与えられたため、通直は戦国大名としての河野家最後の当主となってしまった。
西園寺公広 さいおんじ きんひろ (1537~1588) 西園寺家
伊予の戦国大名。黒瀬城主。僧籍であったが伯父の西園寺家当主・実充の実子・公高が討死したため還俗して家督を継いだ。毛利家、河野家と結んで勢力を保っていたが、1584年に長宗我部元親が侵攻してくると降伏。さらに翌85年、豊臣秀吉による四国征伐が始まると豊臣方の小早川隆景に降伏した。1587年、豊臣家臣・戸田勝隆が新たな領主になると西園寺旧臣が一揆を起こし、関与を疑われて殺害された。
七条兼仲 しちじょう かねなか (?~1582) 七條家
阿波の国人で阿波板野郡七條城主。怪力の豪傑で各地で戦功を挙げたという。1582年の中富川の戦いで、十河存保に属して長宗我部元親と戦ったが、奮戦むなしく討死した。徳島大山寺に鏡餅を奉納して怪力を得た逸話から、今でも大山寺では、大きな鏡餅を抱えて、どれだけ歩けるかを競う「力餅」という祭りが行われている。
安芸国虎 あき くにとら (1530~1569) 安芸家
土佐の国人。長宗我部家と国境を接したため、領土を巡って長宗我部元親と対立した。一時、義兄である一条兼定の仲介によって元親と和睦を結んだが、元親が友好を深めるためと送ってきた使者を怪しんで追い返し、再び敵対した。その後、元親の侵攻に対して決戦を挑むが、八流の戦いに敗れて進退窮まり、領民の安寧を条件に自害した。
一条房家 いちじょう ふさいえ (1475~1539) 土佐一条家
関白・一条教房の次男。土佐国司。土佐一条家初代当主。父の領地・土佐幡多郡に下向して土着した。名門の権威をもって土佐の国人領主たちをまとめ、本拠地・中村を「小京都」と呼ばれるほどの街に発展させ、土佐一条家の全盛期を築き上げた。土佐七雄のひとり・長宗我部兼序が本山家に滅ぼされると、兼序の嫡男・国親を保護して長宗我部家の再興を助けた。
一条房冬 いちじょう ふさふゆ (1498~1541) 土佐一条家
土佐国司。土佐一条家2代当主。父・房家の死により家督を継ぐ。在国公家としては異例の正二位の位階を許され、皇族の姫を正室に迎えている。側室のひとりが、西国の大大名・大内義興の娘で、その間に生まれた晴持は、叔父である大内義隆の養嗣子となった。上方との関係を強め、政治的、経済的に基盤を固めようとするが、まもなくして亡くなった。
一条房基 いちじょう ふさもと (1522~1549) 土佐一条家
土佐国司。土佐一条家3代当主。父・房冬の死により家督を継いだ。智勇に優れ、土佐七雄の津野家、大平家と争い、土佐の西部全域と中部の一部にまで勢力を広げた。さらに伊予南部にも侵攻して勢力の拡大を図るなど、積極的な攻勢にでていたが、28歳の若さで自殺した(一条宗家に疎まれての暗殺とも)。家督は7歳の嫡男・兼定が継いだ。
一条兼定 いちじょう かねさだ (1543~1585) 土佐一条家
土佐国司。土佐一条家4代当主。房基の子。父・房基の自殺(暗殺とも)により、7歳で家督を継ぐ。長宗我部元親が台頭しくてくると妹婿・安芸国虎と結んで対抗するが、国虎が討たれると、次第に勢力を失い、豊後に追放されて大友宗麟を頼った。その後、キリスト教に入信し、宗麟の助力を得て土佐への復帰をはかるが、四万十川の戦いで元親に大敗し、瀬戸内海の戸島に隠棲した。
土居宗珊 どい そうざん (?~1572?) 土佐一条家
土佐一条家の筆頭家老。智勇兼備の良将で、土佐一条家の内外政を取り仕切った。宗珊あるかぎり、一条家には手出しができないといわれるほど、国内外に名声が知れ渡っていたが、長宗我部元親の侵攻に対して策を講じるよう進言したのを主君・兼定に疎まれ殺害されてしまった。一説には元親の調略を受けていることを元親に流布され、疑心暗鬼になった兼定に殺害されたともいわれる。
本山茂宗 もとやま しげむね (1508~1555) 本山家
土佐七雄と呼ばれた豪族のひとつ・本山家の当主。長宗我部兼序を自害に追い込んだ父・養明の跡を継いで、土佐北部の山間部から平野部へ領土を拡大、本山家の全盛を築いた。土佐一条家の庇護を受けた兼序の嫡男・国親とは和睦をしたが、長宗我部家を快くは思っていなかったという。1555年に病没、家督は嫡男・茂辰が継いだ。
本山茂辰 もとやま しげとき (1525~1564?) 本山家
茂宗の嫡男。父の死により家督を継いだ。長宗我部国親の娘を娶って長宗我部家とは和睦をしていたが、家督を継いでまもなく国親と対立し、長浜の戦いで敗れた。戦い直後、国親は急死したが、後を継いだ元親に朝倉城、そして居城・本山城も奪われた。その後も瓜生野城に籠って元親に抵抗し続けたが、その最中に病没した。家督は嫡男・貞茂(親茂)が継いだ。
本山親茂 もとやま ちかしげ (1545~1587) 本山家
茂辰の嫡男。初名は貞茂。父・茂辰が長浜の戦いで長宗我部国親に敗北して以来、徐々に勢力を失っていく父を支え、度々、長宗我部勢を撃退した。朝倉城、本山城を失うと、瓜生野城に籠って抵抗を続けたが、父が亡くなると降伏して長宗我部家臣となり、元親から一字をもらって「親茂」と名乗りを変えた。母が国親の娘であったため、一門衆にも加えられ、元親の嫡男・信親の家老となるが、信親に従って参加した戸次川の戦いで信親と共に討死した。
三村家親 みむら いえちか (?~1566) 三村家
備中の戦国大名。備中松山城主。備中の一国人であったが、毛利元就の後ろ盾を得て三村家を備中における一大勢力に拡大させた。さらなる勢力拡大を狙って備前、美作への侵攻をはかるが、宇喜多直家の放った刺客・遠藤秀清、俊通兄弟によって暗殺された。秀清、俊通兄弟は暗殺に火縄銃を使用しており、これは日本史上でもっとも古い銃による狙撃事件といわれている。
宇喜多直家 うきた なおいえ (1529~1582) 宇喜多家
備前の戦国大名。毛利元就、尼子経久と並ぶ中国三大謀将のひとり。斎藤道三、松永久秀と並ぶ三大梟雄のひとりでもある。宇喜多家は備前の豪族・浦上家の家臣だったが、直家が幼い頃に祖父・能家が同じ浦上家臣・島村盛実に謀殺されたことで宇喜多家は没落し、放浪の身となった。15歳で浦上宗景に仕官。そこからは才覚を発揮してのし上がり、舅・中山勝政や仇敵・島村盛実を討って家中での立場を確立した。その後、備中の豪族・三村家を破って、主君・宗景を凌ぐ力を手に入れると、遂には宗景をも追放して備前一国を手に入れる。織田信長の中国征伐軍に対しては、毛利家と結んで対抗していたが、戦況が不利になると羽柴秀吉を通じて信長に降伏し、以後は毛利家と戦った。本能寺の変の直前、幼い嫡男・秀家を秀吉に託して病没した。手に余る人物を娘などを嫁がせて親類にし、頃合いを見計らって謀殺する手法を使ったため、身内にも恐れられたと伝わる。
遠藤秀清 えんどう ひできよ (?~1604) 宇喜多家
宇喜多家臣。阿波国出身。通称は又次郎。備中国、美作国を転々としたのち宇喜多直家に仕えた。弟・俊通と共に火縄銃に長けた「遠藤兄弟」として知られ、備中国で一大勢力となった三村家親の暗殺を俊通と共に火縄銃で成功させた。これは日本史上もっとも古い銃による狙撃事件といわれている。この功により直家より浮田姓と片諱を賜り浮田家久と改名した。直家死後は直家の子・秀家に仕えたが、関ヶ原の戦いで秀家が改易されると浪人となった。
遠藤俊通 えんどう としみち (?~1619) 宇喜多家
宇喜多家臣。阿波国出身。通称は喜三郎。備中国、美作国を転々としたのち、兄・秀清と共に宇喜多直家に仕えた。兄と共に火縄銃に長けた「遠藤兄弟」として知られ、備中国で一大勢力となった三村家親の暗殺を兄と共に火縄銃で成功させた。これは日本史上もっとも古い銃による狙撃事件といわれている。直家死後は直家の子・秀家に仕え3千石を領するが、関ヶ原の戦いで秀家が改易になると隠棲した。
小寺政職 こでら まさもと (1529~1584) 小寺家
播磨御着城主。小寺家は播磨に勢力を誇った赤松家の分家筋だが、のちに半独立化した。織田信長が勢力を増してくると、家臣だった黒田(官兵衛)孝高の意見を入れて信長に恭順の意を示したが、有岡城の荒木村重が謀反を起こすと、すでに毛利家に通じていた三木城主・別所長治らと共に信長と対立した。しかし、有岡城、三木城が織田軍によって落城したため、毛利領の鞆の浦へ逃亡し、同地で没した。
吉川国経 きっかわ くにつね (1443~1531) 吉川家
安芸の国人領主。父は、応仁の乱で東軍に属して奮戦し「鬼吉川」の異名をとった吉川経基。娘は毛利元就の正室。父の隠居により家督を継ぎ、大内義興が京都を追われた室町幕府10代将軍・足利義稙を奉じて上洛した際には、これに従い、船岡山の戦いにも参加した。帰国後、安芸国内が尼子家と大内家の争いの場になると、尼子家に属して戦った。隠居して家督を譲った長男・元経に先立たれたため、元経の子・興経を後見した。
吉川元経 きっかわ もとつね (1459~1522) 吉川家
安芸の国人領主。国経の子。妹は毛利元就の正室。大内義興が、室町幕府10代将軍・足利義稙を奉じて上洛した際には、父と共にこれに従い、船岡山の戦いにも参加した。有田中井出の戦いでは、宮庄経友を毛利元就の援軍として派遣し、勝利に貢献している。その後は、大内義興から尼子経久に属した。父に先立って亡くなったため、子の興経が父・国経の後見を受けて当主となった。
吉川興経 きっかわ おきつね (1508?~1550) 吉川家
安芸の国人領主。元経の子。幼い頃に父を亡くして家督を継ぎ、祖父・国経の後見を受けた。国経の死後は、尼子家と大内家との間で、利のない鞍替えを繰り返し、そうした行動が次第に叔父・吉川経世ら家中の不満を煽ったとされる。そこを毛利元就につけ込まれ、経世と共謀されて隠居となり、母が吉川家の出身である元就の次男・元春を送り込まれて当主の座を奪われた。隠居後は幽閉され、最後は危険分子として殺害された。
宮庄経友 みやのしょう つねとも (?~?) 吉川家
安芸の国人領主・吉川家の一門。家中では猛将として名を馳せたという。主君・元経の命で有田中井出の戦いに毛利元就の援軍として派遣され、武田家の勇将・熊谷元直を討ち取った。元就の次男・元春が吉川興経の養子となり、興経が隠居となると、これに反対したが、所領を没収されてしまった。
小早川興平 こばやかわ おきひら (1505~1527) 沼田小早川家
安芸の国人領主で沼田小早川家の当主。父の死により幼くして家督を継いだ。当時の安芸は大内家、尼子家の影響が大きく、興平も家督相続をするときは大内義興、尼子経久の介入を受けた。分家である竹原小早川家の当主・弘平を後見として、それらの介入を防いでいたが、最終的には大内義興に属すことになった。病弱であったため、22歳で亡くなり家督は子・正平が継いだ。
小早川正平 こばやかわ まさひら (1523~1543) 沼田小早川家
安芸の国人領主で沼田小早川家の当主。興平の子。父の代から従属していた大内家から尼子家へ寝返ろうとしたが失敗し、大内家の強い監視下に置かれた。大内方として第一次月山富田城の戦いに参加した際、撤退が決定すると殿を命じられて討死した。家督は子・繁平が継いだ。
小早川繁平 こばやかわ しげひら (1542~1574) 沼田小早川家
安芸の国人領主で沼田小早川家の当主。正平の子。父・正平が第一次月山富田城の戦いで討死したため、わずか2歳で家督を継いだ。家臣団に支えられて尼子家の侵攻をよく防いでいたが、盲目であったため、難局を乗り越えるのは厳しいだろうと考えた大内義隆、毛利元就によって尼子家に内通した嫌疑をかけられ幽閉された。家督は分家の竹原小早川家を継いでいた元就の三男・隆景が繁平の妹を娶ることで継ぐことになり、両小早川家は統一された。
小早川弘平 こばやかわ ひろひら (?~?) 竹原小早川家
安芸の国人領主。沼田小早川家の分家・竹原小早川家の当主。大内義興が、京都を追われた室町幕府10代将軍・足利義稙を奉じて上洛した際には、これに従い、船岡山の戦いにも参加した。応仁の乱後から険悪だった沼田小早川家との融和を図り、若年で沼田小早川家を継いだ興平の後見をつとめ、1512年に安芸の国人領主たちで結ばれた盟約にも沼田・竹原両小早川家の代表として署名した。
小早川興景 こばやかわ おきかげ (1519~1541) 竹原小早川家
安芸の国人領主。沼田小早川家の分家・竹原小早川家の当主。弘平の子。妻は毛利興元(元就の兄)の娘。弘平の死後に家督を継ぎ、大内義興に従った。尼子晴久が、毛利元就の吉田郡山城に攻め寄せたときには、毛利家の援軍に駆けつけるなど活躍したが、安芸武田家の佐東銀山城攻めの陣中で病没した。跡を継ぐ子がいなかったため、妻の実家・毛利家から元就の三男・隆景が迎えられ家督を継いだ。
武田元繁 たけだ もとしげ (1467?~1517) 安芸武田家
安芸武田家当主。安芸武田家は安芸守護代の地位にあったが、元繁の時代には大内義興の勢いに押され服属していた。義興が室町幕府10代将軍・足利義稙を奉じて上洛した際にも、これに従い在京していたが、尼子経久の策略によって安芸国内に紛争が続発すると、その鎮圧のため、義興に命じられて帰国した。しかし、元繁はこれを、かつての栄華を取り戻すための好機と捉え、逆に経久の援助を得て挙兵、大内領へ攻め入るが、有田中井出の戦いで、大内方の毛利元就に討ちとられた。
熊谷元直 くまがい もとなお (?~1517) 安芸武田家
源頼朝に従って鎌倉幕府の樹立に貢献した熊谷直実の末裔。安芸の旧守護代の家柄である武田元繁に従い、元繁と共に大内義興の上洛に参加していた。元繁が、尼子経久の支援を受けて、義興に反旗を翻した時も、これに従ったが、有田中井出の戦いで毛利元就に討ち取られた。曾孫にキリシタンとなった同名の人物がいる。
鈴木重秀 すずき しげひで (?~?) 鈴木家
紀伊の鉄砲傭兵集団・雑賀党の頭領。「雑賀孫一(孫市)」の名で有名。本願寺が織田信長と対立して石山合戦が起きると、石山本願寺に入って織田勢を苦しめ、戦闘力の高さから本願寺の坊官・下間頼廉と共に「大坂之左右之大将」と称された。天王寺砦の戦いでは、織田家臣・塙(原田)直政を討ち取り、砦に籠った明智光秀を助けに来た信長にも怪我を負わせたといわれる。1577年の紀州征伐でも遊撃戦を展開して信長を苦しめたが、80年に本願寺が信長と和睦するとそれに従い、さらに信長の後ろ盾を得て雑賀党内での地位を確立した。本能寺の変後は、雑賀党内の反織田派の反撃を恐れて雑賀を退去し羽柴(豊臣)秀吉に仕える。その後、秀吉のもとで小牧・長久手の戦いに参加、秀吉による紀州征伐では降伏の使者をつとめたといわれるが、以後の消息は不明。
筒井順慶 つつい じゅんけい (1549~1584) 筒井家
大和の戦国大名。父の死により叔父・順政の後見を受けて2歳で家督を継いだ。家督を継いだ当初、近畿では三好長慶が勢力を誇っており、長慶の寵臣・松永久秀の大和侵攻に悩まされた。しかし、織田信長の上洛により、久秀が信長に臣従。順慶も信長に臣従することになり戦況は膠着する。その後、久秀が謀反を起こし、自害したことで大和の平定がなされると、大和支配を任され明智光秀の与力となった。光秀が本能寺の変を起こすと、味方になるよう誘われるが、それを断り羽柴秀吉に味方する。しかし、山崎の戦い当日、光秀の牽制を受けて軍を動かすことができず、このことが秀吉と光秀の戦いを傍観していたかのようにとらえられ日和見主義の代名詞となってしまった。
畠山高政 はたけやま たかまさ (1527~1576) 畠山尾州家
河内の守護大名。畠山家は、斯波家、細川家と並ぶ三管領家のひとつだったが、応仁の乱以降はその地位を細川家に独占され、1550年ごろには河内一国の守護にまで落ちぶれていた。父の死により家督を継いだ高政は、足利幕府の実権を握った三好長慶と争い、長慶の弟・義賢(実休)を討ち取るなど勢いをみせたが、最終的には居城を追われ紀伊に逃れた。13代将軍・足利義輝が三好三人衆に殺害されると、家督を弟・昭高に譲って、自身は義輝の弟・義昭の擁立に奔走。のちに織田信長と義昭が対立すると義昭に味方した。信長派に転じた昭高が家臣・遊佐信教に暗殺されると、信教を討とうとするが敗れ、流浪の末に亡くなった。
波多野秀治 はたの ひではる (?~1579) 波多野家
丹波の戦国大名。父の代に三好長慶に敗れ服属していたが、長慶死後に三好家が衰退すると、八上城を奪取して独立した。織田信長が上洛してくると一度はそれに従い、丹波国内の反織田勢力の討伐に協力したが、のちに反旗を翻した。そのため、信長の命を受けた明智光秀の攻撃を受けることになる。はじめは赤井直正らと協力して撃退していたが、次第に劣勢となり、1年半の籠城の末に降伏した。しかし、信長には許してもらえず、弟・秀尚と共に安土で処刑された。
籾井教業 もみい のりなり (?~1576?) 波多野家
丹波の豪族。「赤鬼」と称された赤井直正に対して「青鬼」と称された猛将。織田信長の命を受けた羽柴秀吉と戦い、奮戦するも討死したと伝わる。しかし、丹波攻略を担当したのは明智光秀であることから史実ではないとする説もある。
赤井直正 あかい なおまさ (1529~1578) 赤井家
丹波の豪族。「丹波の赤鬼」と称された猛将。外叔父を殺害して黒井城を奪った経緯から「悪右衛門」と呼ばれた。「甲陽軍鑑」には、徳川家康、長宗我部元親、松永久秀と共に「名高き武士」のひとりとして紹介されている。織田信長が上洛してくると、信長に従うが、但馬の山名祐豊と敵対すると、祐豊が信長に加勢を頼んだため関係が悪化、1575年に信長が直正討伐を明智光秀に命じたことで信長とは完全に敵対した。光秀の侵攻を波多野秀治らと協力して何度も撃退し、存命中は光秀の侵攻を許さなかったが、病死後に家督を継いだ嫡男・直義が9歳と若輩だったため、一族は没落した。
別所長治 べっしょ ながはる (1558~1580) 別所家
播磨三木城主。正室は波多野秀治の娘。父の病死により若くして当主となる。父・安治は早くから織田信長に恭順しており、長治もその方針を受け継いで、家督相続後すぐに信長に謁見、1577年には紀州征伐にも加勢した。しかし、上月城の虐殺など、信長の過激な行動や派遣されてきた中国方面司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じて反旗を翻した。序盤は荒木村重の謀反や毛利家の支援を受けて秀吉とも対等に戦っていたが、「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めにあい、2年に及ぶ籠城戦の末、城兵の助命を条件に自害した。
<辞世の句>
今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば
本願寺顕如 ほんがんじ けんにょ (1543~1592) 本願寺
本願寺11代法主。妻は三条公頼の娘・如春尼。如春尼の姉・三条夫人は武田信玄の正室であるため、顕如と信玄は義兄弟にあたる。父・証如の重態を受けて急遽得度し法主となる。父の代から進めてきた幕府や公家との繋がりを深め、石山本願寺を拠点に一大勢力を築いた。織田信長が上洛してくると横暴な要求を突きつけられたため、敵対することになり、10年にも及ぶ石山合戦に突入する。その間に信長包囲網の一角を担うなど信長を大いに苦しめたが、信玄の死を境に包囲網が瓦解、支援を受けていた毛利家が第二次木津川口の戦いに敗れると抗しきれなくなり、事実上降伏ともいえる和睦を受け入れ石山本願寺を退去した。この和睦に関しては徹底抗戦を主張する強硬派・教如(顕如長男)の反発があり、顕如の死後、穏健派・准如(顕如三男)の西本願寺と強硬派の東本願寺に分裂するきっかけとなった。本願寺退去後は、各地の一向一揆を鎮めるための説得にあたった。
本願寺教如 ほんがんじ きょうにょ (1558~1614) 本願寺
顕如の長男。浄土真宗大谷派12代法主。父・顕如を補佐して織田信長と戦うが、顕如が信長と和睦したのちも徹底抗戦を主張して石山本願寺に立て籠もったため、顕如とは不仲となる。本能寺の変後、父と和解、顕如の死後は法主となるが、豊臣秀吉に、かつて徹底抗戦を主張していたことをなど理由に異母弟・准如へ法主の座を譲ることを迫られ退隠した。しかし、その後も法主として活動を続け、関ヶ原の戦い後に徳川家康から寺領を寄進されたことをきっかけに東本願寺の住職となり、結果、本願寺を分裂させることになった。この分裂は本願寺の力を削ぐために家康が謀ったものだともいわれるが真意は不明。
本願寺准如 ほんがんじ じゅんにょ (1577~1631) 本願寺
顕如の三男。教如の異母弟。浄土真宗本願寺派12代法主。石山合戦の時は、まだ幼少であったため、常に父・顕如の側にあって成長した。父の死後、法主の座は異母兄・教如が継ぐが、かつて織田信長との徹底抗戦を主張した強硬派だったことなど理由に豊臣秀吉に退隠させられたため、法主の座に就くことになった。しかし、その後も教如は法主としての活動を続け、准如を推す穏健派との対立は残る。関ヶ原の戦い後、徳川家康から寺領の寄進を受けたことで、教如が東本願寺として分立。そのため、准如ら穏健派は西本願寺と呼ばれるようになった。
下間頼廉 しもつま らいれん (1537~1626) 本願寺
本願寺の坊官。顕如に仕え、顕如が織田信長と対立すると、合戦の総指揮を任された。軍略に優れ織田軍を大いに苦しめたことから、本願寺が雇った鉄砲集団の頭領・鈴木重秀(雑賀孫一)と共に「大坂之左右之大将」と称された。信長との和睦後は石山本願寺を退去し、顕如と共に各地の一向一揆を鎮めるための説得にあたった。本能寺の変後、本願寺は豊臣政権の強い影響下に置かれるが、その中で本願寺町奉行に任じられる。顕如の死後は准如(顕如三男)に仕え、本願寺が強硬派・教如(顕如長男)の東本願寺と穏健派・准如の西本願寺に分裂しても准如を支持して90歳の天寿を全うした。
六角定頼 ろっかく さだより (1495~1552) 六角家
南近江の戦国大名。観音寺城主。はじめ、室町幕府10代将軍・足利義稙に仕えたが、義稙が管領・細川高国に京都を追放されると、高国が推した義晴を12代将軍の地位に据えるのに力を貸した。その後、高国が細川晴元に討たれ、晴元が新たな管領となると、険悪だった義晴と晴元を和睦させ、自身も晴元と良好な関係を築いて管領代に任命されるなど中央政治にも影響を及ぼした。内政面でも手腕を発揮し、一国一城令の先駆けともいえる城割(支城破却)で家臣を統率。さらに、楽市令を出して城下の経済を発展させるなど六角家の全盛を築いた。のちに織田信長が出した楽市・楽座は、定頼の楽市令を模範にしたといわれる。
六角義賢 ろっかく よしかた (1521~1598) 六角家
定頼の子。観音寺城主。承偵の呼び名でも知られる。家督を継いだ当初は、室町幕府13代将軍・足利義輝と三好長慶の和睦に貢献したり、北近江の浅井久政を従属させるなど父・定頼が築いた六角家の地位を維持していたが、1560年、浅井長政(久政の子)に野良田の戦いで大敗。さらに、家督を譲っていた子・義治が有力重臣・後藤賢豊を殺害した観音寺騒動によって家臣団の統率もままならなくなり衰退した。そうした中、織田信長の上洛軍に抵抗するが、結局敗れて観音寺城から逃亡。その後も信長には反抗し続けたが、成果は上がらず、晩年は豊臣秀吉の御伽衆として生涯を終えた。
六角義治 ろっかく よしはる (1545~1612) 六角家
義賢の子。観音寺城主。父の隠居により家督を継ぐが、実権は父に握られていたという。1563年、有力重臣で人望も高かった後藤賢豊を殺害してしまった観音寺騒動を起こし、父と共に城を追われる。その後、蒲生定秀、賢秀親子の尽力で城主に復帰するが、当主としての権限を抑えられた。織田信長の上洛に対しては三好三人衆と結んで抵抗するが、支城である箕作城が落ちると観音寺城を捨て逃亡。その後も落ち延びた甲賀で反信長の姿勢を貫くが成果は上がらなかった。晩年は豊臣家に仕え、秀吉の死後は秀頼の弓術師範をつとめた。
進藤貞治 しんどう さだはる (1497~1551) 六角家
六角家の重臣。後藤賢豊と共に「六角の両藤」と称された。六角定頼のもと、主に外交政策で手腕を発揮し、室町幕府12代将軍・足利義晴と管領家・細川晴元の仲介や、豊後大友家とのやりとりで活躍した。定頼に先立ち病没。家督は「両藤」の称号と共に子(?)の賢盛が継いだ。
蒲生賢秀 がもう かたひで (1534~1584) 六角家
六角家臣。定秀の子。義賢、義治に仕え、父と共に観音寺騒動では主家と家臣団の仲裁役として活躍した。織田信長の上洛戦で、義賢、義治が逃亡すると、子・氏郷を人質に出して降伏した。降伏後は柴田勝家の与力として活躍し、勝家が越前に移封となると、そのもとを離れた。本能寺の変では安土城を守備していたため、信長の身内を居城・日野城に匿った。
蒲生定秀 がもう さだひで (1508~1579) 六角家
六角家臣。定頼、義賢、義治の三代に仕えた。蒲生家の分家の出身だが、定頼の信頼厚く、定頼の後ろ盾を得て宗家を滅ぼし、その家督を継ぐ。定頼に従って多くの戦に参戦して武功を挙げ、内政面でも城下町の整備などで活躍した。定頼死後は家中の実力者として義賢、義治に仕え、観音寺騒動では主家と家臣団との仲裁に奔走した。織田信長の上洛戦で義賢、義治が逃亡して大名家としての六角家が滅びると、信長に仕えた。
後藤賢豊 ごとう かたとよ (?~1563) 六角家
六角家の重臣。進藤貞治と共に「六角の両藤」と称された。定頼、義賢、義治の三代に仕えて浅井家との戦いで活躍。義賢・義治親子が上洛をした際には警護役もつとめた。智勇に優れ、家中での人望も厚かったが、野良田の戦いで敗北して以来、主君としての立場が低下していた義治の妬みをかい暗殺された。この暗殺がきっかけで観音寺騒動が起こり、六角家は急激に衰退していった。
山名豊国 やまな とよくに (1548~1626) 山名家
因幡守護。鳥取城主。山名家はかつて六十四州のうちの十一州を治める大家だったが、戦国時代には衰え、毛利家が侵攻してくると軍門に降った。織田信長による中国遠征が始まると、家臣らが徹底抗戦を主張する中、単独で羽柴秀吉に降伏を願い出たため、そのまま家臣らに追放されてしまう。秀吉による鳥取城落城後は、秀吉の家臣とはならず、のちに徳川家康の知遇を得て、山名家は江戸幕府で上級旗本として存続した。